NO MUSIC FIGHTER

音楽の話と音楽じゃない話をしようよ

高木正勝|ソロピアノコンサート「YMENE」@めぐろパーシモンホール

夏の終わりに相応しい、不気味で生々しく美しい公演でした。
凄まじかった。

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2017/9/1 fri
高木正勝
ロピアノコンサート「YMENE」
at めぐろパーシモンホール 大ホール
open 18:00 start 19:00
¥5,500

ライブの感想

高木さんのソロコンサートを聴きに、目黒のパーシモンホールへ。
この日は今にも降り出しそうな空模様でしたが、開演まではなんとかもってくれました。東横線都立大学駅で降りて、会場までの道のりは傘をささずに歩けました。

ホワイエでは物販が行われていて、「山咲み」(ヤマエミと読みます)と「YMENE」(こちらはイメネ)が売られていました。この日物販で購入すると、終演後にサイン会に参加できたようです*1

チケットは一般でのんびり取ったので、席は二階席の後方。
ステージの中央にグランドピアノとアンプだけが置かれたそっけないステージ、開演前はずっと、波の音がしていました。

開演前アナウンスが入って、ほぼ定時開演。
そこからおよそ90分間、ひとつの公演として決して長くはないたったの90分の間でしたが、視覚と聴覚、思考と感情、そのすべてを支配されて掻き回されてめちゃくちゃにされたような感覚に陥った。圧倒的に濃密、生々しくグロテスクにどこまでも美しいステージでした。

YMENEは、2010年に同会場で行われた同名公演の再演です。
わたしは前公演は観ておらず、YouTubeで映像を見たり、少し前に発売されたCDで音を聴いたりするばかりでした。

個人的なことですが、わたしが彼の音楽に触れて好きになったのが2000年代半ば、その当時の楽曲がずらりと収められた音源は、作品として素晴らしいだけでなく、思い入れや感傷込みで大切なもので、何度も繰り返し再生しました。この日はそれをリアルタイムで生音で観て聴いて触れることができるのだ、と思って素直に楽しみにしていました。

だからステージが暗転するまでは無邪気にあのピアノの音を待ち望んでいて、でも、洪水としか言えないような凄まじい圧で音と映像が流れ出たその瞬間、完全に油断しきっていたところを崖の上から突き落とされたような衝撃でいっぱいになってしまった。ENも終わって客電が点くその瞬間まで、何一つとして考えることができなくて、ただただ受容して感覚するだけの原始的な生き物になったようだった。

公演の構成はシンプルで、ステージ中央に置かれたピアノとシンセの走るスピーカーと、獣の呼吸のような高木さんの声、そしてステージ背景に映し出される絶え間なく動き続ける映像、それだけ。言葉にしてしまえば簡単な、ただそれだけの公演だったんだけどな。
再演だから、演奏される曲はわかっていた。それぞれにどんな映像がついているかも知っていた。だから公演全体へのイメージはちゃんと持っていたし、想像の方向性はそんなに外れていなかった。ただ、圧が、生々しさが、グロテスクなほどに美しい質量が、桁外れだっただけで。

2曲目の「Tidal」、その音と映像を受容した瞬間、全身に鳥肌が立った。

溢れ出る水のような音と、繰り返し繰り返しこちらを振り返る女性の顔。笑顔と死相の狭間のような、生と死のグラデーションのような、決して観ていて気持ちいいと感じるような画ではないのに無理やり引きずり込まれる、不気味に美しい音と映像のループ。

音楽を聴いたというよりは、生命あるいは死そのものみたいな、原始的で強烈ななにかに触った、という感覚が近い。途中、震災を思い出した瞬間が何度もあった。家畜の死骸や基礎ごと浮かぶ家とで埋め尽くされた、それでも数か月後には何事もなかったかのように、いつもどおりまっさらになってしまった海を思い出した。

ほんと、脳天を鈍器で思いきり殴られたみたいな衝撃が最初から最後まで続いていたせいで細かい記憶が全然ない。衝撃が閾値を超えて正常な思考回路が動作していない。口から腹の奥まで腕を突っ込まれて掻き回されて内臓を引きずり出されながら、頭を優しく撫でられているような感覚。

抽象的なことしか言えない。

高木さんの曲や映像は、少なくともこの時期の曲や映像は、基本的に休符が少なくて停止する瞬間があまりない。間隙がなくあらゆる空間に音や画が詰め込まれている。音を聴きながら目の前に幻視する譜面も映像に浮かび上がる線や色や光もそのすべて、止まることでこちらに思考する隙を与えることがない。前述した「Tidal」で引きずり込まれてから、終演までただの一度も、我に返ることがなかった。
これは凄まじいこと。人によって違うのかもしれないけど、少なくともわたしはそう、ステージを観て聴いているとき、ステージ以外のことに一切思考が向かないことはほとんどない。それはステージに集中していないという意味ではなくて、集中すればするほど、思考が速度と深度を増して、違う場所にまで派生しようとする。でも今回はそうはならなかった。ここまで凄まじい強制力を持つステージ、もしかしたら初めてかもしれない。なにも考えられなかった。

ピアノを聴きに行く、という気持ちで足を運んだけれど、終演後には、なにか凄まじいものを体験した、という感覚が残った。 

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観たあと数日間呆然としていて、我に返ってからは「なんとか記録してあの感覚を残しておこう」と思って何回か感想をまとめようとしたけれど、どうしてもうまく書き留めることができなくて、何度試みてもこのエントリみたいに曖昧でよくわからないものになってしまった。でもまあこうとしか表現できないからこのままでいいかな、と思って、自分で読んでもよくわからない感想だけれど、とりあえず残しておくことにします。

ENで少しだけお話しされた高木さんが、「毎年違うことをやってきたつもりだったけれど、こうしてみるとずっと同じことを描いていたんだなと思った」と、訥々と話されていたことを覚えています。
過去の曲だけで埋め尽くされる息苦しいほどの密度を保った空間で、最後の最後、一曲だけ演奏された、今年制作したというスケッチのような楽曲が、救いのように美しかった。

善いとか悪いとかではなく、ただ音と光そのもののような公演でした。
今でも思い出すと指先が震えるくらい、本当に怖かったけれど、行ってよかったです。凄惨で美しい情景、他では決して得られない、濃密な体験でした。

*1:どちらも持っている+相変わらずの接触苦手のため、購入はしませんでした