NO MUSIC FIGHTER

音楽の話と音楽じゃない話をしようよ

haruka nakamura PIANO ENSEMBLE FINAL「光」@東京カテドラル聖マリア大聖堂

自分はなにを求めて即興音楽を聴くのか?という問いに対して、ひとつの回答を得られた日でした。当日は美しい晴天、あの音楽を聴けてよかった。

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2017/7/21 fri
haruka nakamura PIANO ENSEMBLE FINAL「光」
at 東京カテドラル聖マリア大聖堂
open 18:00 start 19:00
¥4,500

感想

2015年から行われていた、PIANO ENSEMBLEの最終公演でした。
最終公演なんだけど、わたしはこれが初めて。毎回けっこうな瞬殺だったんですよ……。

観光以外の目的で教会に足を踏み入れることは初めて。会場外には普通に案内のスタッフさんがいて、ごく普通のイベントみたいでしたが、中に入るとさすがに一般的なホールとはずいぶんと趣が違いました。
コンクリート打ちっ放しのドーム型の建物で、前方中央には天井まで伸びる大きな十字架。この日はけっこう暑かったのですが、乾燥した少し冷たい空気に満ちた空間でした。
建築物として非常に魅力的だったので帰宅してから調べてみたら、丹下健三氏(東京都庁舎や横浜美術館横須賀芸術劇場などを設計した超すごい建築家)の代表作だったんですね。知らなかった。

この日先行発売されていた新譜を買ったのち、席で待機。
備え付けの木造りの横長のベンチの脇にパイプ椅子が並べてあって、パイプ椅子は追加席。わたしは追加席の後方だったので、ステージはほぼ全くといっていいほど見えませんでしたが、ぜんぜん気にならなかった。というか演奏中、半分くらいは目を閉じていたな。

定時から少し押して開演。

聖歌隊CANTUSが2曲歌って、PIANO ENSEMBLEの演奏に入る前に、讃美歌を歌う機会がありました。
讃美歌を歌うといっても、メロディも歌詞もぜんぜんわからないから、ただコーラスとして一定の音階で声を出し続けるだけ。Fだったかな、観客の声で大聖堂が満ちるなか、CANTUSが歌うという形。

この公演とは全然関係ないのですが、この日、LINKIN PARKチェスター・ベニントンが亡くなったというニュースが流れました。リンキンは新譜をちゃんと買っているバンドのひとつだったので(世代ど真ん中なんです)、かなりショックで。とくに新譜が、これまでとはかなり異なるサウンドかつメロディの美しい作品で、「攻めてんな、次の作品も楽しみだな」と変化を期待させてくれるものだったので、なおのことショックで。
ニュースを聞いたときは「なんで」とか「ずるい」とか「逃げんなよ」とか理不尽な感情でグチャグチャだったのですが、数時間グダグダしたら、すきなミュージシャンが亡くなるといつも思うことではあるのですが、「でも曲は残るよ」と。「あなたが逝っても作品は残るよ、そしてその作品は古びたり死んだりせずにずっとわたしの手元にあるし忘れないよ、これまでどおり聴き続けるだけだよ」と。そんな気持ちだったので、ここで讃美歌を歌えたことで、気持ちの整理がついたし、救いにもなりました。

その一方で、PIANO ENSEMBLEの曲って、ほぼすべて即興なんですよね。
その場で生まれて、その場で消えていく音楽。譜面のない、残ることのない音楽。

化石や星の光みたいに、遠い遠い未来にも届く形あるもの、作品、を尊いと思う感情と同じくらい、その場で生まれてその場で死んでしまうものを大切に思っていて。音楽においていえば前者は音源、後者はライブ演奏になるんですが、それらの差異ってなんだろう、自分はどちらに重きをおいているんだろう、ということをときどき考えます。とくに最近は、ピープル波多野さんの「10年後も新譜たりうるもの」という言葉を受けて、スタンダードとは何か、楽曲の強度とはなにか、古びない芯とはなにか、ということもよく考えていたので、「残ること」と「その場で消えてしまうもの」は自分の中でとてもタイムリーな議題でした。

harukaさんの「僕たちは基本的にずっと即興で演奏してきました。これから演奏するのは楽譜のない音楽です。この場で生まれて、この場で消えていくものです」という主旨の言葉を聴きながら、なんというか、「録音された作品を聴くこと」は「純粋に音楽を聴くこと」「作品そのものと対峙すること」ですが、「会場に足を運んでその場でしか鳴らない音を聴くこと」は、たぶん「爪痕を求めること」に近いんだな、と感じました。ポエティックな物言いになってしまってあれですが、作品との対峙は「作品」という完成したものと自己だけの世界であって、かつ作品側は自己に対してなにかを働きかけることはない、能動的で孤独な対話だと認識しています。作品は完結しているので、そこになにを聴いてなにを得るかは自己が作品になにを視るか、なにを得ようとするかの問題でしかなくて、完全に孤独かつ終わりのない作業だと思っています。その世界には作り手すら介在できなくって、ただただ作品と自己しか存在しないと思ってる。その一方で、即興音楽を、即興でないにしてもライブで演奏される残らない音楽を聴きに行くことは、それとは異なる複数の意味合いを持つことだと認識しています。単に作品との対話というだけではなくって、今この瞬間の演奏者が作品をどう解釈しているのかという立ち位置を知ること、つまり自分と異なる視点を得たり楽曲の表情の変化に触れたりすることであったり、「その場で消えてしまうこと」自体が自己にどのような作用をもたらすのか観測すること、あるいは作り手なり演奏者なり以外の存在、その場にいる聴衆、が音楽に対してどのような影響をもたらすのかを観ることであったり。これらはたとえば「一体感」や「ライブマジック」などと形容される現象の一部であり、「その場限りであること」と「自己以外の他者が複数存在すること」が影響し合って楽曲を変化させる、そのことによってまた楽曲に対する視点や立ち位置を拡大させて自己に還元する、という意味合いがあるのかなと思いました。その還元されるもの、孤独な対話だけでは得られないものを受け取りにいくこと、自分の中に新しい問いを発見すること、爪痕を求めること、それがその場で生まれてその場で消えていく音楽を求めるひとつの理由だと感じました。

そして即興について。即興音楽は「その場で作られてその場で消えるもの」、つまり固定されないもの、生まれた瞬間に完成するあるいは永遠に完成しないものに等しい。そこで音が鳴らされることは鳴らされない音が選択されることと等しく、鳴って届いて聴こえる音に触れることは、それ以外の全ての鳴らされなかった音を受け取ることでもあるんだな、なんて考えながら聴いていました。
乾燥した少し冷たい大聖堂に響くピアノの硬質な音と、弦やフルートの密やかな音色、透明であたたかい人間の声。死者に祈るものや未来に送り出して幕を下ろすもの、楽曲それぞれに込められたものが全て「いまこの瞬間」に鳴らされるに相応しいもので、とても美しかった。この日も演奏された大好きな楽曲のタイトルどおり、演奏の最初から最後まで全て、「音楽のある風景」そのものでした。なんというか、生まれた瞬間に死んでいく音に耳を澄ますことは、休符を聴くことでもあるし、鳴らなかった全ての音を聴くことでもある、なんてその瞬間はごく自然かつ強く確信していた。今でもその感覚はわたしの中に残っていて、また新しい作品に触れるとき、この感覚、この視点、から作品を観ることができるはず。そうやって新しく得た視点で作品と対話を重ねるたびにその視点は強固になっていって、だからまた柔らかく新しいものを得るために現場まで足を運ぶ。
ああいう瞬間的な霊感を得るために即興を聴くんだよな、とぼんやり思いました。
爪痕を残すこと。

グダグダ書いていたらぜんぜんライブの感想じゃないものになってしまったのですが、彼の音楽は美しいものを幻視させたり抽象的な思考を促したりする側面が強いので、これはこれでいいかな、と勝手に納得しています。

演奏はもちろん素晴らしかったです。とくにうららさんの透明でしなやかな歌声が本当にうつくしくて、軽やかに音階を駆け上がるのびやかさが得難く、いつかまた彼女の歌声を聴きたいなと思わされました。

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いい日でした。
自分の中で、非常に意義深く、ひとつの転機となるような公演でした。