NO MUSIC FIGHTER

音楽の話と音楽じゃない話をしようよ

ごく限定的な傷心のためのプレイリスト、あるいは神に向かって飛ぶ鳥の話

あまりにも感傷的なので下書きのまま放置していましたが、決別できたので供養を。
2017/9/22に書いた日記。

気持ちの切り替えに時間がかかるし、考えをまとめることにも時間がかかる。基本的に処理能力が低くて、自分を納得させることが下手だという自覚がある。
ずっと自分の心のいちばんやわらかい部分に居てくれた、自分の一部みたいに仕舞いこんで大切にしていたバンドが、ばかみたいにあっけなく信じられなくなって観ることができなくなった。毎日聴いていた音楽を再生できなくなった。どんな言葉も真摯に受け止めることができなくなった。現場に行きたくないと思うようになってしまった。

生きているのが最高に楽しくて常にしあわせ、みたいな人はそんなにいないだろうと思う。そう口にしている人でもあえてそうしている部分があるだろうと思うし、無条件で苦しくないハッピーな人、可能性としては存在するかもしれないけど、でもやっぱり誰しも苦悩はあるだろうと思う。見えない場所にいろんな影があろうのだろうと思う。
だから自分が他者と比較して特別苦しいのだとは思わないし、不幸であるとも思わない。でも、社会性に乏しくて適応しながら呼吸することがつらいな、と思うことはある。それは自己の属性や能力の不足が原因で、だからそれを言い訳にして甘えたくはない。生きるの向いてねえな、と毎日思うけれど、わたしから見て生きるの向いてるなと思う人たち、そういう人たちがなんの努力や対価も払わずに「生きるの向いてる」わけじゃないこともわかってる。自分が生きるの向いてるようになるための努力を怠っているのも理解している。
でもやっぱりしんどい。迎合せずに適応するのは難しい。人間と交流することは苦手だ。言葉は鋭利すぎて、使えば使うだけ傷つくし傷つける。疲弊して摩耗する。死へのリミットを一日一日消費するごとに、中身ががらんどうにになっていく。空白が広がってなんにもなくなってしまう。皮膚と輪郭だけの生き物になっていく。

頭が悪くて、他者の発言の意図を汲み取ることが上手にできない。その人がなぜそのような発言をしたのか、そこにどういった意味合いが含まれるのか、考え込んでしまうからレスポンスがいつも遅い。コミュニケーション能力の高い人は情報処理能力の早い人で、発言の端々や抑揚や表情の色といったさまざまな発信を即座に統合して他者の内面を推測してそれにふさわしい返答をする能力に優れている。わたしはレスポンス以前の問題のところで毎回躓いて、この人はなんでこんなことを言ったんだろう、と考え込んでしまって、どうにもうまく進めない。

だから、と言うのはすごくずるいというか、嫌な言い方、自分が嫌いなタイプの物言いなんだけど、今は敢えて使用することを自分に許可して、そうだから社会性に乏しくて生きるのがつらいから苦しいからだから、音楽に著しく依存している側面がある。自分の内面が沸騰してわけがわからなくなっているとき、できるだけ具体的じゃない美しいものに触れて自分の感情の輪郭を把握したい。細部を見るとわからなくなるから、まずは全体の形状をなぞりたい。でも無音の中で一人でずっとそれをやっていると苦しくて、難しくて、だから音楽を聴くのかな、と思う。抽象的で美しくて、直接的に干渉してくることはないけれど、ずっと寄り添ってくれる優しくて冷たい隣人。
そういう音楽の聴き方、本当はあんまり好きじゃない。音楽はただ音楽であるだけ、そのリズムがビートがメロディが気持ちよくて体が踊るだけ、胸が震えるだけの、その歓びを追うだけの聴き方がいちばん純粋で正しいのだと思っている。だから苦しいときじゃなくて、楽しいときに聴いてただ楽しいと感じるだけの音楽を受容できたときは本当にしあわせ。音楽をなにかに利用するんじゃなくて、そのものを受け取れたと自分で認識できたときは、心からしあわせ。でも逆に、自分が苦しくてつらくて、その負担を減らすために利用するように貪る聴き方をするときは、罪悪感があるし自己への嫌悪感もある。作品はその程度ですり減ったりしないと思うけれど、それでも嫌なものは嫌だ。向き合い方として美しくないと思うから、そういうのは嫌いだ。

でも今は許している。自分に許している。嫌な形で、醜い形で、依存する形で音楽を聴くことを、全面的に許している。
自己内の起伏を抑えるために、強弱の差を縮めるために、沸騰している温度を下げるために、好きな音楽を聴く。
彼ら以外の。

 話を変える。

以前もちょろっと書いたけど、スーパーカーが好きだ。
今年デビュー20周年を迎えたらしくて、そうなんだ、と感慨深い。
彼らのアルバムはどれも好きだけれど、『Futurama』と『HIGHVISION』は特別に好きで、その2枚は甲乙つけがたい。

デビュー20周年、解散済み、というバンドではあるけれど、わたしにとっては過去から現在に至るまで、スーパーカーはごく日常的に聴き続けている音楽だ。進行形の、いつも隣に当たり前にあるもの。だから「もういない」という感覚はないし、同様に、「20周年」という感慨もない。彼らの音楽はわたしにとってごくごく正しい形での「音楽」で、鳴っているものを聴く、聴いて楽しむ、ただそれだけのフラットなもの。音も詞も大げさじゃないから、そこがいいのかも。ただ歩いているだけのなんでもない朝、騒がしいカフェでコーヒーを飲む昼休み、休日にベッドでごろごろしているときとか、あらゆるシーンで違和感なく自然に鳴るところが、そこがすきなのかな。
とはいえ、日によって、そして年を経るにつれて、彼らの音楽のどの部分がいちばんフィットするか、というのは少しずつ変わっていく。ここ最近は以前よりもずっと、前から好きだったけれどそれよりも遥かに強く、「AOHARU YOUTH」が響く。たぶんこれまでの人生でいちばん、「AOHARU YOUTH」を大切に聴いている。何度も何度も繰り返し、繰り返し何度も何度も、再生し続けている。

スーパーカーの音楽に、こんな風に寄り掛かったことはなかったから、これっきりでやめたいと思う。言葉に寄りかかりすぎるとつらい。クリエイター自体を消費することに繋がりかねないし、本来的な意味で音を楽しむことができなくなると思うし、音以外の要素に左右されて音楽に触れられなくなってしまったりする。から。ね。

でも今は許してる。
まだあとちょっとだけは許してあげる。

Spotifyを導入して、聴きたい音楽を聴くフットワークが格段と軽くなって、いつもアンテナの鈍かった「新譜」によく手を伸ばしている。TSUTAYAで借りた1枚を繰り返し繰り返し何度も聴いていただけのアーティストの新譜、今はもう気軽にすぐに聴けて、特別に気に入ったらCDショップに足を運んで物として手に入れる。そういう流れができあがっている。
そうやって新しいものを聴いたり、昔から馴染んでいる音楽を聴き返したり、しながら、今の自分にフィットする曲たちを掬い上げてはプレイリストに追加していく。目を閉じて再生して耳元で歌う音を追いかけて、感情の均衡を保とうとする。好きなもので感覚を満たして、大丈夫だよ、と教えてあげたい。

作ったプレイリストを延々と聴いている。仕事中も聴いているし、自宅でも聴いている。耳を塞いでいる。たくさんある大好きな音楽で、耳を塞いでいる。耳を塞いだまま本を読む。新しくない、子どもの頃からずっと、何度も何度も繰り返し読んで、心臓の奥の奥まで沁み込んだような文字列だけを繰り返し読む。

鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。

近年はKindleを愛用しているけれど、『デミアン』だけは文庫本を持ってページを何度も何度も繰り返しめくる。紙の質感が指の腹に馴染むまで、バカみたいに何度も何度も繰り返しめくる。指紋が削れていくようだ。同じ部分を繰り返し読む。沁みついて離れなくなるまで、それ以外の言葉がわからなくなってしまうまで、躾けられてそれ以外はなにもわからなくなってしまった犬のように動作をループして視覚する。読み返す。

こんなことで?自分で思う。こんなことで?たったこれだけのつまらないことで、あんなにも愛した音楽を聴かなくなってしまうの?音楽自体とは全然関係ない、こんなくだらない、たかが現実ひとつで?
ばかみたいだ。でもそうだ。感覚と感性は裏切らない。裏切れない。騙し切ることができない。もう無理だと思ったら、もう無理だ。元には戻らない。お城は崩れてしまった。
寄りかかりすぎていただけなんだろう。感覚が麻痺していたんだ。依存しすぎていた。だから適切な状態に戻るための、正常に復帰するための、いい機会だったんだろう。きっと。

今でも聴けば愛しい。大好きだ。愛してる。
ならそれだけでいいんじゃないかな。
手元にあるものだけで十分だ。もう十分満たされている。ボタンを押せばいい。それだけで耳元であの音はまた鳴る。それで十分だよ。もうそれだけでいい。

違う場所へ行こうよ。
卵をぶち壊して死ね。
死んで違う場所に行こう。家なんてどこにもなくていい。

I am only scared that I'll seek it endlessly.

ないものを探すのは苦しいよ。
でもこのままだと、ずっとずっと死ぬまで探し続けるんだろうな。
自分が勝手に作った虚像だって、そんなことはわかっているのにね。
はやく諦めたいから、死ぬまでもっともっと遠くに行くよ。

さよなら、わたしの AOHARU YOUTH。