NO MUSIC FIGHTER

ライブレポ90% CDレビュー10%

チェルフィッチュ|「部屋に流れる時間の旅」@シアタートラム

素晴らしかったです。まだ時間をきちんとおけていなくて気持ちが落ち着いていないからかもしれないけれど、今のわたしは「傑作だった」という言葉を選択したい。背筋が凍るようにこわい、でも日常の地続きにある舞台。素晴らしかった。

f:id:haru1207:20170627122608j:plain

2017/6/23 fri
チェルフィッチュ
「部屋に流れる時間の旅」
at 三軒茶屋シアタートラム
open 18:30 start 19:30
¥3,500

感想

久しぶりのチェルフィッチュ。当日券で観に行ったら、トラムシートは終わっていて立ち見。立ち見もほぼ完売だった。

ここ数年で観た「女優の魂」や「現在地」や「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」は比較的ポップでわかりやすい方向性だったし、こないだは「わかったさんのクッキー」を手掛けたりもしていたので、そういう方向に行くのかなと思っていたのですが……さほど熱心な観客ではない身で言うのもなんですが、今作は凄まじくチェルフィッチュらしいチェルフィッチュでした。

先ほど挙げた3作は劇中での息の抜き方がわかりやすいというか、比較的起伏のある造りになっていて、物語のわかりやすい山場が存在していた。そして山場以外の部分では少し笑える部分とか、客席も意識を少し緩めていい箇所があった。でも今回はそうじゃなくって。淡々とした構成、限りなく平坦に近い緩やかな上り坂が全く同じ角度のまままっすぐに続いていてそれを等速で歩き続けているような、そんな感覚。最初から最後まで徹底的に途切れることのない集中を要求する造りだと思った。

セットはシンプル、でも散漫としている。ストーリーは全てひとつの部屋の中で進行するので、部屋を模したものなんだけど……「部屋にあるもの」としてごく普通に認識できるものはテーブルと椅子、そしてカーテン。それ以外は複数のさまざまな照明が均一でない間隔で舞台に配置され、均一でない間隔と強さで点いたり消えたりしている。
始まる前に舞台セットはきちんと見たつもりだったんだけど、始まってからふと灯りや音で、「見たつもりだったけれどきちんと認識・把握できていなかった物体」の存在に気が付くことがあった。集中すればするほど意識を散らされるような感覚。

登場人物は3人。
最初から最後まで部屋にいるのは2人。
2人は夫婦で、男は客席に背を向けて椅子に座っている。女は室内をゆっくりと歩き回りながら、男に思い出を語り続ける。途中から、男が呼んだ別の女が部屋にやってくる。ただそれだけの話なんだけど、最初から部屋にいる2人のうち、過去を語り続ける女は死者だ。

脚本にわかりやすいフックはないです。女が死者であることは明確に語られるより前になんとなく伝わってくるし、登場人物それぞれに位相の違いというか、噛み合わない・ずれている・異物である・という感覚がなんとなくずっとあって、だから女が死者であると明言されたり死因やそのときの状況が明らかになってゆくときも「ここがピークだよ」という感覚はない。謎解きのわかりやすい気持ちいいカタルシスはない。その淡々として歪な構成は現実と芝居の境界線を曖昧にするようで、舞台上で演じられる言葉や動作を観ているにも関わらず、「これは地続きだ」という感覚があった。部屋に死者がいるのは舞台上のフィクションで、でもきっとわたしの部屋にも死者はいるんだと感じるような。死者は過去であり終焉でありどん詰まりであり、決して干渉し得ない「終わってしまったもの」のことだ。生きている限りその負債は永遠に溜まっていく。でも溜まっていく負債自体はもう終わってしまっていて、それ自体はなにものでもなくなにものでもなく、なにものでもない。

なんか観ながら「3人は現在過去未来それぞれのメタファなんだな」とか「全体主義に対する批判、いや批判という言葉だとちょっと適切じゃないかなあ、提言、も違うかなあ、そういう能動的なものじゃなくって、うーん、とにかく大きな当事者としての連帯を外側から俯瞰する視点として機能する装置だよね」とか「肉体の不自然な動作が少し緩まっているのかな、より自然で小さな動きになっていてそれがむしろ歪で気持ち悪い。差異はわずかである方が発見や理解が遅れるぶん“わからない”という状態が長続きして物語に常時一定の効果を加え続けられるのかもしれない」とか「意図的に妨げられている音がある、ということばがものすごく強く印象に残っている、聴こえない音、見えないもの。これは舞台でなければ完全に表現しきることのできないもので、たとえばこの場面をDVDで観てしまったらもう完全に別物になってしまうだろう」とか「音楽を聴くということはそこで選択された音以外は聴かないということであって、休符を置かれた場所にはあらゆる選ばれなかった音が存在していて、だから一曲を聴くということはそこで鳴っていない他全てのあらゆる音楽を聴くことに通じるのかもしれない」とかいろいろ考えたんですが、そういうさまざまな見方や言説を許容する空白を持ちながらも、恣意的かつ強固にデザインされきった舞台だなと思いました。観たことがある中で好きなチェルフィッチュの公演は余白の美しさと怖さが印象的なものが多いのですが(地面と床・わたしたちは無傷な別人である・三月の5日間)その余白が完全に制御されている感じがして気持ち悪かった、それが美しかった。外部から情報を受け入れる受容器とそれを得ての思考、そのすべてが操作されるような、ドライブされるような感覚があった。こわかった。とにかく、素晴らしい公演だと思いました。

あと、青柳いづみは本当に素晴らしい役者だなと思いました。彼女を見ると毎回言ってるけど、毎回しみじみとそう思うんだから仕方ないよね。素晴らしかったです。