NO MUSIC FIGHTER

音楽の話と音楽じゃない話をしようよ

いつか好きになるかもしれないあらゆる音楽について

好きな音楽はたくさんあるけれど、その全てを常に愛してるわけじゃない。

Plastic Treeのツアーが終わってから一時期、エレクトリックな音が全てうるさく聞こえるようになってしまった。ロックなんてもってのほかだし、テクノももちろんダメ、静かなら大丈夫かなと思ってエレクトロニカを聞いてみてもハイハットとかの鋭く尖った音色が耳についてダメ。アコースティックならいいかなと思ってクールジャズを聞いてみたらこれもうるさくてダメ、オーケストラなんて話にならない。室内楽でもほとんど嫌悪。で、最終的にはピアノ曲、地味で暗いピアノ曲に行きついて延々とそればっかり聴いてた。地味で暗いピアノ曲って要するにドビュッシーなんだけど。根暗で排他的で理想主義で、冷たい湖の底からじっとりと見つめてくるような曲たち。

だからピアノ曲って言ってもショパンだのリストだの聴くわけない。うるさすぎる。あ、あとチェロが好きなのでチェロ曲も聴けました。チェロ曲というか、無伴奏チェロ組曲第1番。あれ大好きでいろんなプレイヤーが弾いているデータを収集しているので、半日以上リピートしたりしてた。それでも情熱的にダイナミックに弾くプレイヤーはやっぱりダメで、飛ばしてしまったりしていた。小声で遠く歌うような、柔らかく語り掛けるような演奏がよかった。

友人に勧められて聴いて以来ミッシャ・マイスキーのエモーショナルな演奏が大好きなんだけど、このときは彼の演奏は聴けなかったなあ。ベッタベタに情熱的なんだわ、彼の演奏。そこが魅力的なんだけど。ちなみに貼ってあるのはヨーヨー・マの演奏だ。彼も大好きなチェリストのうちの一人。偉大な、そしてマイスキーとは全く異なるタイプのプレイヤー。

それはともかく、こういうこと=特定の音楽がいきなり聴けなくなることはたまにあって、だからそのうち収まることもわかっているので、大人しく通り過ぎるのを待っている。今回は早くって、3日くらいであっさり収まって、またボチボチいろんな音楽を聴いたりしている。早く終わってよかった。木曜日はジャミロクワイのチケットを取っているので、こんな状態で行くのは避けたいと思ってヒヤヒヤしていたのだった。幸いなことに大きかったり尖っていたり派手だったりする音も問題なく聴けるようになって、ここ1週間くらいは新しいものじゃなくて昔から馴染んでいるものを聴き直すのが楽しい。今日はSUPERCARの『FUTURAMA』をずっと聴いてた。

スーパーカーのアルバムは全部好きなんだけど、1枚選べって言われたら『FUTURAMA』かなあ……でも気分次第で結構変わるんだよなあ。でも『FUTURAMA』は本当に大好き。墓場まで持っていくアルバムの内の1枚。

うちの会社はかなり緩くて、仕事中に両耳を塞いで音楽を聴いていたってなにも言われない。数字さえクリアすればいい、ということは数字は絶対にクリアしなくちゃいけないのでそこはシビアなんだけど、目標を立ててそれを突破するみたいなのはゲームぽくて好きな方なので苦ではない。むしろダラダラ何のために行われているのか理解できない作業を続けることの方が苦手なので、目標がなかったら勝手に立てるし。うん、で、そんなことはどうだっていいんだけど、『FUTURAMA』を聴きながら仕事をしていたら、目の前にバッと違う世界線の日常がセロファン被せたみたいに現実の上に重なって、仕事をしているのに仕事をしているわたしがわたしから無関係になるみたいな感覚があって楽しかった。わたしはPCの前でキーボードの上に指を配置してパチパチ押して叩いてPCの内部にある言葉や数字を書いたり消したり足したり引いたり選んだり捨てたりするんだけど、そうやって問題なく仕事をしているわたしの上にそうでないわたしが被さって、明るい退屈な幽霊が部屋中に拡がるみたいな気分になるんだよね。『FUTURAMA』っていうアルバムには、そういう力があるんだ。電波みたいなこと言ってるけど、聴けばわかるから知らない人は聴いてください。

なんで今日『FUTURAMA』を選んで聴いていたかって言うと、それはわたしが週末に「グラスハート」を読んでいたからだ。「グラスハート」っていうのは90年代にコバルト文庫から出版されてスタートした少女小説のシリーズで、大好きな、なんて言葉は足りないくらい愛しているシリーズ。高校生の女の子がロック界のアマデウスなんて呼ばれている天才に見初められてメジャーデビューが確定しているバンドにドラマーとして参加していくっていう話なんだけど、この話はストーリー自体はそんなに問題じゃない。問題じゃないっていうと言い過ぎかもしれないのだけれど、なんというか、表層だけ語っても全然違う物語みたいに聞こえるので適切に語る言葉を持てない。1巻を読んでみて「あ」て引きずり込まれるタイプの人には通じると思うのだけれど、文体、というか選ばれる言葉、単語、助詞、リズム、そのひとつひとつが魂の足跡みたいな感覚があってこわい。喉を掻きむしって心臓に錐を突き立てられるような、それでも絶対に死ねないような切実さがあって、読んでいるだけなのにあまりにも痛くてつらい。でもそこを愛していて、だからこうやって今でもたまに読み返す。

「グラスハート」を読み返していたのは先週の水曜日に日比谷図書文化館で嵯峨景子講師の「少女小説は死なない」という講義を聴いたからだ。昨年出版された同氏の「コバルト文庫で辿る少女小説変遷史」が面白かったから、ぜひ講義も聴きたいと思って行った。

とっても面白かったのでこんな雑記じゃなくてちゃんとした感想をそのうちどっかに書こうと思っているけれど、とりあえず内容は脇に置いておく。ちなみに嵯峨景子講師は海月さんとかJMマニアの人たちにはNEW ATLANTIS由里葉さんって言った方が通じやすい気がする。
それにしても、初めて行ったけど日比谷カレッジって面白そうな講義いっぱいやってるのね。で、その講義で久しぶりに少女小説というものに対する意識を刺激されたので、読み返したくなって読み返した。子どもの頃に少女小説はたくさん読んだ、特に好きなのはファンタジーとSFだった、でもやっぱり一等賞はファンタジーでもSFでもない「グラスハート」シリーズだった。

「グラスハート」はバンドを描く小説なので、音の描写がたくさん出てくる。主人公の朱音ちゃんが所属しているテンブランクというバンドは、ベースボーカル&ギター&キーボード&ドラムの4人編成で、パッと聞くとキャッチーなメロディとお洒落っぽい鍵盤が耳に入るような、エレクトロシティロックなんだろうなーとわたしは思ってる。でもよく聴いてみると変なことをたくさんしていて、音の構成がセオリーを踏んでいなくってめちゃくちゃやかましいような、そんな感じ。で、わたしにとって、テンブランクというバンドが実在したらこういう音なんだろうな、というイメージがスーパーカーであり、彼らの作品の中でも特に『FUTURAMA』がそうなのでした。

そもそもわたしがスーパーカーを聴き始めたのは、「グラスハート」シリーズがきっかけでした。「グラスハート」の短編に「ストロボライツ」という話があって、その話がわたしは大好きなんだけど、確か「ストロボライツ」はスーパーカーの同名曲からタイトルを拝借していたはず。コバルト文庫版のあとがきに書いてある、と思う。違ったっけ?コバルト文庫版は実家にあって手元にないのでそのうち確認したら追記します。間違ってたらごめん。

なんにしても「グラスハート」のあとがきにスーパーカーの名前があって、それで興味を持ってかつてのわたしはレンタルビデオ屋でスーパーカーの『FUTURAMA』を借りたのでした。TSUTAYAじゃないよ、地元の、なんかよくわかんない名前のローカルなレンタルショップ。田舎だからね、TSUTAYAとかないの。で、初めて聴いてすごい衝撃を受けたのだった。当時の世界とか価値観とか、そういったものを根本から揺さぶられるような、ものすごく沁みる目薬をさされてワッてなって両目を両手でふさいだ途端に耳元で大きな声で歌われて背中に白い鳩を突っ込まれたみたいな、それくらいのビックリがあったのだった。当時のわたしはメタルとハードロック以外は音楽ではないみたいな視野狭窄に陥っていて、速くて低くて暗くてうるさければいいみたいな価値観で音楽を聴いていたから(このときクラシックとポップスのこと大嫌いになってたから、そのせいだと思う。あとヒットチャートを毛嫌いしていた。でも流行りの洋楽は聴いてた。洋楽ならいいのかわたしよ)エレクトロとギターロックとポップネスが絶妙に絡み合って作り上げられた近未来的な音像が、本当に衝撃的だったんだ*1

スーパーカーとの出会いがきっかけになって、わたしはそっち方面の音楽にも手を伸ばすようになった。速くて低くて暗くてうるさい音楽ばっかり聴いていた時期が過ぎて、クラシックもまた聴くようになったし、ポップスも聴くように戻った。彼らのインタビューを遡って少し古い洋楽を聴いたりもした(ちなみにスーパーカーのルーツとプラツリのルーツは割と近い場所にある。でも近いシーンに影響を受けているといっても根幹となる場所は明確に異なっていたりして面白い)。

それと同時期くらい、かな?もう少し後かな?ファッション誌のFUDGEで連載されていたコラムが好きで高木正勝に興味を持って聴き始めて、そこからアンビエントに流れていって、またスーパーカーと、というよりナカコーと出会ったり。

音楽以外の好きなものから音楽に流れていくと、新しい知らなかった音楽に出会えたり、あるいは好きだった音楽の違う側面に出会えたりして、シナプスが繋がるようなシュワシュワした快楽があって、その点と点とが結び付いて線になって線と線が結び付いて面になって面と面が結び付いて立体になって、みたいな無数の連なりによって、今でもわたしの世界は追加され続けている。たまに「エレクトリックな音は聴きたくない!」みたいになって、一時的に欠ける場所があったりもするんだけど。

ブログに感想は書いてないけど、4月の上旬に「GENERATION AXE」ていうメタルギターのお祭りみたいなやつを観に行った。さっき書いた「速くて低くて暗くてうるさくなければ音楽ではない」みたいな時期って、イングウェイとかヴァイとか死ぬほど聴いていたのでした。まあ奴らが暗いかどうかは議論の余地があると思うけど……でもああいう派手でヒーローですごくてバーン!みたいなのが大好きだったのだ。そういう懐かしい過去に会いに行く、という感じと、あとヌーノ・ベッテンコートが出ていたのでN4って本来はどういうギターなのか見ておきたいなと思って観に行った(プラツリのナカヤマさんがN4使いなんだけど、インタビューとかで散々“N4らしくない使い方”って言われてるし本人も言ってるから本家が気になったのだ)。でも、結局あんまり楽しめなかった。唯一名前を知らなかったトーシン・アバシが最高にカッコよくて、でもそれ以降は徐々に、大御所になればなるほどテンションが下がっていってしまった。ヴァイでちょっと復活したけど、イングウェイは全然テンション上がらなくて、上がらない自分にビックリしてしまった。あんなに大好きだったのに、今は全然響かない。ちなみにザック・ワイルドは最初から通ってない。

でも、これってメタルが嫌いになったわけじゃないんだと思う。単にそういう時期なんだと思う。突然3日間だけうるさい音楽が聴けなくなるみたいに、電気的な音なんて消えてなくなれ!て思うみたいに、発作的な衝動の、そういう流れの大きなやつなんじゃないかなあ。一時期クラシックとポップスをこの世から駆逐したいくらい憎んだみたいに、でもまた愛しいものとして懐に戻ってきたみたいに、そういうスパンがあるんだろうなあと思っている。点と点が繋がって立体構造が出来上がっていくと、中に入っちゃって見えなくなる部分とか出てくるから、そういう感じなんでしょう多分。だからそのうち、また違う点ができて結びつきが変わったら、中に収められている部分が剥き出しになって、白髪のおばあちゃんになってから陸メタラーみたいになるのかもしれないし。先のことはわからないから。

それと同じように、今好きじゃないあらゆる音楽も、いつか好きになるのかもしれない。それは音楽を聴いていく中で出会うものかもしれないし、あるいは別のカルチャーから出会うものなのかもしれない。柴崎友香の小説からROVOに出会ったように、上遠野浩平の小説からドアーズに出会ったように、三角みづ紀の詩集と歌から触れたことのなかった国内のジャズシーンに出会えたみたいに、知らない新しい何かに出会う道筋は無数に存在している。

音楽の好き嫌いは激しい。ちょっと聴いてやだからパス、みたいな音楽はたくさんある。対バンを最後まで観ないで帰ることだってよくある。途中で飽きて、フロアに居ても全然音楽聴かないで違うこと考えてるときだってたくさんある。でも、そうやって今響かない無数の音楽たちは、これから好きになる音楽なのかもしれないとも思う。この世に無数に存在しているあらゆる音楽を聴きつくすことなんて永遠に絶対にできなくって、だから好きだと感じることができる、情熱を預けることができる対象が存在する可能性は、永遠に尽きないということなんだと思う。いま知らない音楽は、いま嫌いな音楽は、いまわからない音楽は、いつか好きになるかもしれない見えない点だ。嫌いな音楽に「嫌い!つまんない!」って言うたびに、今のわたしのこの感覚を裏切るかもしれない未来のわたしについて考えて、すこしだけ楽しくなる。

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*1:FUTURAMA』、下リンクの記事が共感できるというか(共感って言葉好きじゃないけど)、その表現を選択したくなる感覚わたしにもあると思う、いいよね、という気持ちになったので話の流れとは全然関係ないし昔の記事だけど貼っておきます。